1968年伊勢佐木町ブルースが流行っていた夏 たった一度の家族全員旅行 京急系ホテルの思い出「ホテル京急油壺観潮荘」前編 

 少し前の話だが3月15日をもって京急油壷観潮荘が65年の歴史に幕を閉じた。

運営は京急のグループ企業である三崎観光で、以前は城ヶ島京急ホテル(2021年閉館)や城ヶ島へ渡る観光船も運行していた。京急沿線では数少ない観光地である三浦エリアで複数の観光施設を取り仕切っていた会社だ。

2000年代に入ってからは海洋深層水の取水、それを活用した商品の開発や農水産業での活用、飲料ビジネスや深層水を前述の観潮荘の浴場、また系列のホテルのスパやスーパー銭湯などに水を運んでいた。

その事業は採算性がきびしく早々に撤退となったが、観潮荘ではあらたに温泉を採掘、温泉は観音崎や城ヶ島の系列ホテルで使用されていたが、今回閉館ということになった。

隣接する水族館「京急油壷マリンパーク」は一足早い2021年に閉館、八景島や新江の島水族館に客を奪われたのか全盛時を知る者として晩年は侘しさがあり、油壷自体も観光地として地盤沈下して行った。

 観潮荘と油壷の思い出を話そう。
出来事は二つの時代に分かれており、最初は小学生時代、次は30年以上時間が経過した2003年頃である。

最初の油壷訪問は1968年の夏休みであった。拙家は当時5人家族で両親、祖父母と自分。実はこれが最初で最後の家族全員での旅行である。

当時は池袋に住んでいたが京急線の始発駅である品川駅まで遠かった思い出がある。普段は東武や西武電車が身近な存在で赤色に白の帯が入った電車に乗るのは初体験だったのではないか。

母が「京急ってガラが悪いって聞いてるけど大丈夫かしら?」などと不安がっていたが、京急線利用者には失礼な発言である。

もともと浅草出身で当時は池袋在住。ガラが悪いなどと逆によく言えたものだと今となっては思う。

当時の終点・三浦海岸駅から油壷まではタクシーで向かった記憶があるが5人家族なので乗り切れないので送迎バスだったかもしれない。

国道134号「油壷入口」を右折し、暫く走ると多くの旅館や民宿、土産物店が並んで、人で溢れかえっていた。

大型駐車場には何十台という観光バスが整然と並んでいたが、当時は江の島の海水浴時期も同じような光景だったと記憶している。

宿泊する観潮荘は道のどん詰まりにあったが正面には最新の水族館で話題になっていたマリンパークが見えた。子供なので当然、興味はマリンパークの方にあるのだが何故か殆ど印象にない。子供の背丈では見ることが出来ないほどの見学者で溢れかえっていた。

2年後に開催された大阪万博の記憶も「人の多さ」であってパビリオンの展示物など中身に関する記憶が乏しい。当時の観光形態は一局集中であり、観る、知るではなく、まずは皆が行くところへ行くという”団体型個人旅行”の時代であったかもしれない。

本題の観潮荘だが外観や外壁の色も1968年と閉館時まで殆ど変わっておらず65年間、少しずつリニューアルされていったのであろう。
当時、和室に宿泊したことだけは覚えているが何を食べたかなどは記憶にない。1階の大食堂のような処で昼かと思うがジュークボックスの音楽を聴きながらスイカを食べたことだけは覚えている、その場所、最後まで食堂兼大広間休憩所だったところではないか。

当時は観光施設に行くとジュークボックスをよく見かけた。油壷に行く半年前、西武のスキーバスで苗場に行った時も多分、前橋あたりののドライブインで深夜、当時流行していた中村晃子の「虹色の湖」がかかっていた。

子供ながらにもキュートな中村晃子が好きだったが曲に合わせて踊っていた客もいた。

油壷でかかっていたのは青江三奈の「伊勢佐木町ブルース」である。これは鮮明に記憶している。

この年の大ヒット曲であり、出だしの溜息の部分を毎日放課後に遊んでいた親友の南里君と真似したものだ。

京急沿線だから伊勢佐木町という訳ではないであろうが100円入れれば何曲か当時のヒット曲、歌謡曲から洋楽までベスト50ぐらいまでは聴けたのではないか。

この油壷旅行、印象に残っているのは芋を洗う混雑でマリンパークの記憶が殆どないこと。そして初めて家族旅行に参加した祖父が夕食時にアルコールが入ると別人のように饒舌でよき家族人に変身して驚いたことだ。普段とのギャップの凄さだが、これを「外ずら」というのであろう。

この1泊2日の油壷旅行、ちょうどマリンパーク開業時直後だったことがわかった。ということは両親が息子のためにということだろうが「行きたい」と言った記憶もあまりなく、今思えば何だったのであろうか。

それから2年後、小学校の遠足でふたたび油壷を訪れている。実はその年に池袋から鎌倉へ引っ越し、最初の遠足がマリンパークであった。

この時は平日なので空いていたと思うがまたしても水族館としての記憶がない。

覚えているのは東洋観光というバス会社(京急系で今も健在な会社)のガイドさんがきれいだったこと。車内ではマイクで当時のヒット曲、ちあきなおみの「X+Y=ラブ」という曲を合唱した思い出がある。その後、東洋観光のガイドさんから手紙をいただいた時は嬉しかった。

普段は魚類図鑑を愛読し、特に深海魚が好きだったがマリンパークではろくに鑑賞体験はしていないはずであり、不思議である。

今思えば水族館にはそれほど興味がない家族が周囲にいたことへの遠慮、遠足でも同級生(周囲)への気遣いなどでじっくり観察する余裕などなかったのではないか。もしひとりで行けばじっくりと滞留したであろう。気の毒な子供だったかもしれない。

周りへの気遣いをしなくなった大人になってからは一人で地方の小さな水族館に行くようになった。

マリンパークの後を追うように閉館した観潮荘。多くの人に思い出を残しているであろう。

次回は社会人になってからふとしたことからの観潮荘との再会、それも北海道の仕事を通しての話をしたいと思う。

このコラムの執筆者

マーケティングコンサルタント・コモエスタの部屋ではプライベートで興味のある、昭和のエンタメ系・カルチャー・トラベル等、幅広いジャンルのコラムを書いています。

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