新幹線開業の敦賀と旅立ちのホテル「ビジネスホテル山形」プレイバック1985年~2024年


 今月は旅立ち卒業旅行の時期であるが、そんな自分も大学卒業式の翌日、ふらりと旅に出た。
出発は記憶に間違いなければ1985年3月21日。既に1週間後には入社する企業の新人研修合宿(自衛隊で3泊4日)が控えていた。

実はその10ヵ月前までスペインに滞在していた。本来は米国の大学に留学したく、英語を学ぶつもりが訳あって大学では英語ではなく、スペイン語学科に入ってしまった。1983年10月から1984年6月までスペインに語学研修に行っており、初めての海外生活で人生観が激変。帰国後には就活がすぐに待っていたが、もぬけの殻のような状態だった。就職ということに関して全くリアリティがなく、燃え尽き症候群のような中での就活であった。

何とか就職は決まったが、身分不相応な一部上場のメーカーに入ることに。
ところが内定後の役員との面談で堪えられないような侮辱的な言葉を投げかけられた。それはどうしても許せる範囲の内容ではなく辞退も考えたが、そんなことが許されるご時世でもなく、本当にこの会社に入ってよいのか結論が出ずに遂に卒業を迎えてしまった。
もう猶予もなかったが、もう一度考え直したくなり、急に旅に出たが、とても「卒業旅行」などと云えるものではなかった。

旅の初日、まずは東海道線の普通電車で静岡へ。当時は東京発の静岡行きが頻繁に出ており、50キロ以上は料金が均一だったグリーン車に乗った。静岡では大学入学する前に浪人生活を送ったが予備校ではなく、英語の専門学校に1年通っていた。最初は国内の大学ではなく米国の大学に入る予定だった。その時の仲間が静岡に戻り、会いに行った。
通称Rocoちゃんというひとつ上の姉さんだったが、当時は子供向けの英会話学校の先生と地元では有名だったらしい「ガロマニア」という飲食店で働いていた。夜は大人の世界のガロマニアに招待され、翌日は日本平や三保の松原を案内してくれた。静岡から路線バスで向かったが、バスのラジオから村田英雄の歌が流れていた。今ではあり得ないシチュエーションである。

夕方前、ROCOちゃんと別れて一人新幹線に乗り込む(余談だが今でもRocoちゃんとは交流が続いている)。
その日の目的地は福井であったが年度末のせいかホテルがどこも満室。米原で新幹線を降り、とりあえず北陸線の鈍行に乗り込む。今では信じられないが電気機関車がけん引する赤色の客車(50系客車)。いっきに旅情が駆り立てられた。

長浜を過ぎたあたり琵琶湖北に反射する夕陽が眩しかったがその美しさに惹かれた。その後、近江の国・琵琶湖周辺が好きになり、何度も訪れるがこの夕陽がきっかけになったかもしれない。
県境のトンネルを抜けて陽が沈んだ頃に敦賀へ到着した。敦賀といえば戦前は欧州への玄関口でもあり、かつてはハイカラな港町だった。宿のあてもなかったがとりあえず福井まで大きなマチはないので敦賀で下車をした。
駅を降り立つと静まり返ったアーケード商店街があったが駅前に2軒のホテルがあった記憶がある。その中でいちばん駅寄りの「ビジネスホテル山形」という小さな宿に飛び込みで入った。質素な客室だったがその年は38豪雪以来の大雪の年でまだ雪が残っており、客室の暖がありがたかった。

翌日は名勝の気比の松原や気比神社を訪れるが、途中、欧州航路時代の名残である敦賀港駅の跡や引き込み線と倉庫群の港の光景が欧州の港町のようで素敵だった。残念ながら敦賀港駅痕跡周辺の倉庫群や線路などは今は一部を残すのみで観光化されており、面影はない。


旅行記はこのあたりで終わりにするが、気比の松原の砂浜で新日本フェリーの船を見ながら明日からのことを考えた。旅は福井、金沢、大野、ふたたび下って豊橋と続くがひとつの決断が旅をしながら醸成されて行き、人生のエポックとなった。最終的な決断は偶然とある人と出会った豊橋だがその話は別の機会にでも。

本題の敦賀はその後も数度宿泊している。来る時は節目というか自分が原点に戻りたくなるような時であり、再確認のマチになっていた。1985年の後は1991年、1999年、2005年、2015年に宿泊しており、泊りなしでも何回か来ている。

2005年の時は強烈な思い出がある。敦賀には泊まる予定はなかったが、舞鶴から乗車していた小浜線が夜間にシカを轢いてしまい緊急停車。ワンマン運転で山中ということで救援が来るまで2時間以上はかかるという。12月下旬だったがこの地域には珍しい大雪で車内も冷えてきた。運転手がシカが車輪に巻き付いており、これが外れれば走行可能という。少ない客同士で車外に降り、大雪の中で協力しあって車輪に絡まったシカを引っ張り出した。運転手はその間、前進とバックを何度か繰り替えてしているうちにシカが車輪から外れた。なかなかない経験だが、そのお陰で最終の新幹線米原接続に間に合わず敦賀泊になったこともあった。

2015年はまさに青春プレイバックで最初に泊まったビジネスホテル山形を選択。既にチェーンホテルもいくつかあったが迷わず駅前の山形へ。10平米もないような質素な変形の客室だが大学生の身には十分、30年が経過したが帰ってきたような気持ちだった。既に新幹線工事の真っただ中だったが、駅前のアーケードはシャッター商店街化していて30年の月日を感じた。

今回、新幹線が敦賀まで延伸。閑散化した駅前商店街をこれを契機に再生しようというニュースを見ていたが懐かしのホテル山形が映り、健在であった。40年近く経過したがよく頑張っているなと思った。それは自分に対しても言える言葉か。
近いうちにまたお世話になりたい。

最後に1985年の決断。どちらの路を選んだか。
その後が波乱万丈とまでは行かないが、ちょっと人と違う人生になったのはあの時の決断がすべてであろう。
モラトリアムの時期でもあり、ご迷惑も掛けたが、やめてよかったと今でも思っている。

*上記写真 ホテル客室は宿泊予約サイトから 敦賀港の2枚の写真は1991年6月のものです

このコラムの執筆者

マーケティングコンサルタント・コモエスタの部屋ではプライベートで興味のある、昭和のエンタメ系・カルチャー・トラベル等、幅広いジャンルのコラムを書いています。

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