
「別れても好きな人」ジャケット。ブルーパシフィックで撮影

ロスインの活動拠点ホテルパシフィックラウンジ「ブルーパシフィック」にて別れてもを唄う1981年頃

壊される直前のホテルパシフィック東京。最上階にラウンジがあった
拙ブログのタイトルになっている「コモエスタの部屋」はお分かりの方もいるかと思うがムード歌謡の名曲「コモエスタ赤坂」から拝借している。
幼少時、ムード歌謡全盛期に育ったせいかそのジャンルの音楽が好きであったが今では絶滅危惧種のジャンルになってしまった。
大学時代はスペイン語を専攻していたが、そういう音楽が好きなのを周囲もわかっていたのかあだ名は「コモエスタ」。
今でもコモエスタは携帯メルアドなどに使わせて貰っている。
その「コモエスタ赤坂」を唄っていたのがロス・インディオスというグループである。
結成は1962年、逗子出身の棚橋静雄さんがリーダーのままで亡くなった2023年までメインヴォーカルを務めていた。
小学生低学年時、テレビを付けると「ラブユー東京」の黒沢明とロスプリモス、「小樽のひとよ」の鶴岡雅義と東京ロマンチカそして今回紹介するロス・インディオスあたりが同時期に人気のあったGS(グループサウンズ)と共に歌番組の主役であった。
ムードコーラスというとマヒナスターズを連想する方も多いと思うが、マヒナは昭和30年代初頭から活躍しており、ある種別格の存在でムード歌謡コーラスというフレーズが当てはまるかわからない神的存在なグループである(ロック界でいえばプレスリーのような感じか)。
ロス・インディオス(以下ロスインに略称)の最初のヒット曲は「知りすぎたのね」。なかにし礼の作詞、そして珍しく作曲も担当しており、彼が世に出た最初のヒット曲である。
デビュー曲とされる「コモエスタ赤坂」(実際は違うが後述)は最初はそれほどヒットせずに後にカラオケブームになってから知られた楽曲である。
ロスプリ、ロマンチカ、ロスインを御三家と云わせていただければそれぞれカラーが異なる。
ロスプリは銀座が似合いそれもクラブの世界である。ロマンチカは地方から東京を見るような望郷的な楽曲が多く、ロスインは赤坂、六本木など新しい東京の盛り場、それも水商売ではない恋愛ソングが多い気がする。
ロスインの最初のレコードを買ったのは1977年、15才の時。「夜のスポットライト」というアルバムだが当時は低迷していた時期であった。

初めて買ったロスインレコード。こちらはホテルパシフィック地下のバーで撮影
「別れても好きな人」で再ブレークするのはそれから4年後の1979年から1980年にかけて。
実は別れてものキャンペーンを銀座・山野楽器店頭でやっていた。即売サイン会だったがリーダーの棚橋さんと新たな女性ヴォーカルに加わったシルヴィアがそこに座っていた。
私は母と一緒だったが、母が昔ロスインのショーを赤坂で観たことがあるという。
母は若い頃、あの火事で焼けたホテルニュージャパンでゴルフショップをやっており、当時の赤坂はナイトクラブやキャバレーの全盛時代。その頃に観たようで母が棚橋さんに話しかけたのを記憶している。
母はレコードを買って帰宅すると「シルヴィアさん、初々しくて売れるといいね」と言っていた。
実は山野楽器のサイン会、かなり記憶が曖昧だったが、リーダーの棚橋さんと晩年、知り合うことになり、その話をしたところ山野の社長が青学の同級生で何度かサイン会をやってくれて店頭にもレコードを平積み。随分とヒットに貢献してくれたと語られていた。
「別れても好きな人」は大ヒット。約10年ぶりのブレークとなったが、初代ヴォーカルのシルヴィアの存在も大きかったかと思う。
ロスイン、実は彼女が入る前にも「知りすぎたのね」が出る前の1966年に裕圭子という歌手と2枚シングルを出しており、その後も湖東美歌さんというヴォーカルが純レギュラーでいた。湖東さんは今も活動中である。
ロスインにはホームグランドがあり、品川駅前にあった京急系の「ホテルパシフィック東京」の最上階にあったラウンジ「ブルーパシフィック」に定期的に出演していた。
私は中学高校がこのホテルの直近、また社会人になっても会社がこのホテルから徒歩数分ということもあって非常に馴染みがあり、既に大学生の時に人に連れられてだがラウンジでロスインも初鑑賞している。
そして社会人になった頃からはたまに寄らせていただくようになった。その頃はシルヴィアが卒業し、新しい女性ヴォーカルが加入、レコ大で新人賞を取った桑江知子も一時期在籍していた。
男性メンバーもヴォーカルを含め少し変わったが、棚橋さんがセンターというのは不動であった。
ロスインの基本は男性のツインヴォーカル。長い間、棚橋さんが高音部だったが、御年をめしてからは低い部分を担当するようになった。
このブルーパシフィックには多い時は1週間に1度ぐらい出演していたであろうか?
出演者の多くはホテルと契約をしていた元ロスインのマネージャーが社長を務めていた小澤音楽事務所所属の歌手が多く、ロスインの他にも菅原洋一や伊東ゆかり、キングトーンズなども出演していた。
棚橋さんからは菅原さんと仲がよかったようでここでは書けないあの菅原さんがという武勇伝も聞かせてもらった。
御年91才でいまだ現役の菅原さんは素晴らしい。
ある時、ラウンジのバーにボトルを入れるとショーチャージが無料になることを知って入口にあったカウンターだけのバーにボトルを入れた。
ステージとは少し距離はあったが仕事帰り、ひとりロスインを聴くのは至福であった。
メンバーとの接点が出来たのは2008年頃。ロスインでアルパ(ハープギター)を担当され、その分野では国内では第一人者で、ロスインの音楽的にも中心的な役割を果たしていたチコ本間さんがパシフィックのクリスマス・ディナーショーの後に事故で急逝された。
そのことをブログで書いたのだが、それを読んだチコさんのお嬢さんから連絡をいただき
「それほど父とロスインを愛されているとは」といった内容で送る会に来ていただけませんかという内容であった。
関係者でもないので行っていいのかとも思ったが是非ということで「ブルーパシフィック」での送る会に参加させていただいた。
終了後、ホテルアーケードのベーカリーで買い物をしているとシルヴィアと一緒になった。
この時、少し話をさせていただいたが彼女との会話はこれ1回だけ。思い切ってバーでも誘うかと思ったがその勇気はなかった。
チコさんが亡くなった時の女性ヴォーカルは8代目でアリシアという名前で活動していた。
歌唱力もあって愛くるしいタイプだったが何と彼女も急死してしまう。実は同時期に初代のシルヴィアも闘病の末に亡くなっており、3人続いての死は呪われているのではないかと思ったものだ。
その後、9代目になるのがNina。彼女との出会いが新たなロスインとの出会いでもあった。
Ninaはもともとボサノバ歌手で鎌倉の「ダフネ」というジャズクラブにブラジル音楽グループ、
コネクション・リオのヴォーカルとして出演していた。
もともと親しい店だったが、そこにロスインの9代目ヴォーカルが出演していることを知り、訪ねてみた。
当時、ロスインはホームグランドであったホテルパシフィックが閉館し、活動拠点も減ってメンバーも男性から5名から3名となり、楽器演奏もやめていた。
私も暫くナマで観る機会がなかったが、9代目のNinaに思い切って話しかけてみると意外なことがわかった。
Ninaは2012年に加入、本来はあのペドロ&ガブリシャスの4代目ヴォーカルとして入る予定だったが
リーダーのペドロ梅村さんが病に倒れて活動中止。ちょうどロスインのアリシアが亡くなったため9代目を探しており、それがきっかけで加入した。2012年はちょうど結成50周年の年でもあった。
そのNinaとの出会いがロスインと深く繋がるきっかけとなるのだがそれは後編に述べる。

鎌倉のジャズライブハウス「ダフネ」でボサノバを唄うNina

2022年ロスイン60周年コンサートのPRで中野サンロードで唄う棚橋さんとNinaさん

中野のキャンペーンにはタブレット純さんも飛び入りで登場

2022年3月満席となったサンプラザ60周年記念コンサート